森と一体化した人たち
江戸時代の末期、一部の行者達は、新たな修行の場として、大峯山の東に広がる広大な森に神秘と興味を感じました。
既存の霊場にはない手つかずの森を求めていた彼らにとって、大台ヶ原こそ新天地だったのです。
林 実利 (1843~1884)
美濃(現在の岐阜県恵那郡坂下町)に生まれ、大峯入山後、笙ノ窟で千日の行を終え、その後、ここ大台ヶ原に入山。牛石ヶ原に庵を結び、約3年間の修行をしました。下山後も麓の村で修行を続け、上北山村や下北山村には彼の遺品や逸話が数多く残されています。 昭和の初め頃まで、庵と井戸の跡が残されていましたが、残念ながら、現在その場所は確認できません。最後の地となった和歌山県那智勝浦町の「那智の滝」近くに墓があります。
古川 嵩 (1860~1930)
万延元年、美濃(現在の岐阜県郡上郡美並村)に生まれ、明治24年に初めて大台ヶ原に上がりました。この地を修行の場と定め、最初は約100日間、ついで厳冬期にも3ヶ月間単独で滞在し修行を続けました。明治26年から教会の建設にとりかかりましたが、奥地であることに加え日清戦争の影響で、建設作業は困難を極めましたが、着工後6年を経て完成しました。おおらかな自然賛美の教義のもとにさまざまな階層の人々が集まり、古川行者と呼ばれ親しまれました。
探究と発見の森 ~ 江戸時代の採薬師 ~
現在のように西洋医学が発達していない時代は、和漢薬による治療が一般的でした。採薬師は、新しい薬の材料を深い山々に求め、さまざまな植物を採取し、新薬の開発に取り組みました。 大台ヶ原には、当時の採薬師の足跡が数多く残されています。
畔田 翠山 (1792~1859)
翠山は紀州藩の藩主徳川治宝の薬園管理を任されていた医師で、天保年間に「和州吉野郡名山図誌」を著しました。その中で「大山山記」として、地名の由来や、森の様子を詳細に記録し、大台ヶ原を紹介しています。 その他にも、彼が書き残した分野は、動物、植物、民俗など多岐にわたっています。
登山家による利用の始まりと製紙会社の開発
明治以降登山道が開設され、大台ヶ原は探検家や研究者が入山するようになってきました。 また、大正期には紙の需要が増大したことから大台ヶ原のトウヒ林は製紙材料として伐採されました。この時期の伐採の痕跡として大台ヶ原の各地で切り株、木材搬出路跡が残されています。
松浦 武四郎 (1818~1888)
松浦武四郎は文政元年現在の三重県松阪市に生まれ、幕末期に蝦夷、樺太、千島の探検を行い、「北海道」の命名者としても知られています。明治維新後には全国各地の探検・開拓を行い、大台ヶ原へは明治18年に最初の登山を行ったあと3年にわたり登山しています。西大台には本人の遺言に従い、松浦武四郎の分骨碑が建てられています。
白井 光太郎 (1863~1932)
白井光太郎は東京帝国大学農科大学の教授を務め、博物学、植物学の発展に大きな功績を残しています。また、史蹟名勝天然記念物調査会の委員を務め、植物学の分野で天然記念物の調査をおこない指定に尽力しました。 明治28年に白井は大台ヶ原の植物調査を行っています。大正5年に講演会で製紙会社の伐採に対して大台ヶ原の自然の重要性を説き、原生林保存運動のさきがけとなりました。
国立公園指定へ
昭和6年に国立公園法が制定され、昭和11年に大台ヶ原を含む吉野熊野地区が国立公園に指定されました。昭和15年には同公園が計画決定され、大台ヶ原は特別地域に指定されました。この頃から一般の利用者が増えてきました。
岸田 日出男 (1890~1959)
奈良県の農林技師であった岸田日出男は白井光太郎に触発され、以降大台ヶ原の自然の調査と紹介に尽力し、吉野熊野国立公園指定運動の地元の中心人物となりました。
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