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大台ヶ原と人の関わり

大台ヶ原は、厳しい地形や気象条件を有していましたが、明治以前から薬の材料を求めた採薬師などによる利用がありました。明治以降には入山ルートが開拓され、探検家や修行者が入山したほか、大正にはトウヒを製紙材料にするための開発利用がありました。昭和以降はドライブウェイの開通や登山ブームにより利用者数が大きく増加することもありました。また、気候変動やニホンジカ等の影響よる森林生態系の衰退がみられるようになりました。そのため、利用による植生への影響等を低減するための歩道整備や利用調整地区の導入や、かつての自然環境を取り戻すための自然再生事業など、人の利用や生態系に関わる様々な取組も行われています。現在でも、多くの利用者のほか、関係する行政機関、大台ヶ原自然再生事業に関わる様々な研究者や事業者、保全を手助けする大台ヶ原パークボランティア、ビジターセンターや宿泊施設等で働く人々、より深い自然体験を案内する大台ヶ原登録ガイドなど、様々な人たちが大台ヶ原に関わり続けています。

<利用の歴史>

近世以前〜妖怪の棲む山

雨や霧が多く発生する大台ヶ原は、妖怪の棲む山として長い間恐れられていましたが、江戸時代には、修験者の入山や、幕府や紀伊藩の命による採薬や探査の記録が残っています。

明治〜開拓・探索を試みた人々

明治期になると、西大台で開拓を試みる者が現れましたが、厳しい気象条件により失敗に終わったようです。その後、探検家や修行者らによる入山ルートの開拓により、登山の場として脚光を浴びるようになりました。

大正・昭和〜自然に親しむ国立公園

大正期以降、製紙会社による大規模な伐採が行われました。現在でも伐採跡や、木材搬出路の痕跡が見られます。このような時代背景の中、大台ヶ原の自然を守るため、昭和11(1936)年に国立公園に指定されます。戦後、昭和36(1961)年には大台ヶ原ドライブウェイが開通し、一般の観光客が訪れるようになりました。 その後、ブナ林伐採の危機から自然保護運動が起こった結果、国費により土地が買い上げられ環境庁(当時)の所管となりました。昭和30年代以降、台風による跡やニホンジカの増加等により、東大台を中心にトウヒ林の衰退やミヤコザサの拡大が進行したため、環境庁(当時)は昭和61(1986)年からトウヒ林保全対策事業を開始し、現在の自然再生事業へとつながっていきます。

昭和後期〜平成・令和〜持続可能な利用に向けて

大台ヶ原の利用者は増加が続き、平成に入ってからは、アウトドアブームや環境への関心の高まりの影響をうけ、平成初期には年間12万人(推計)を超える人が訪れる山となりました。一方、利用者の増加に伴い、利用と自然環境の保全との調整が重要な課題となり、平成18(2006)年には西大台利用調整地区が指定されるなど、自然環境保全の様々な取組が行われています。現在、利用者はピークから減少し、年間7万人程度で推移しています。

大台ヶ原開拓の森の写真
大台ヶ原開拓の森
(出典:昭和30(1955)年発行「国立公園紀行」)
日出ヶ岳の曙光の写真
日出ヶ岳の曙光
(出典:大正12(1923)年発行「世界の名山大台ヶ原山」)
伐採した材をトロッコで引き上げている写真
大䑓山 元木谷曳揚機車輌扛上の景
(写真提供:王子エフテックス株式会社芝川製造所)
大台ヶ原年表
大台ヶ原の年表
ダウンロード(PDF・498KB)

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大台ヶ原の歴史

大台ヶ原の利用

大台ヶ原のこれから

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